40歳からの再出発〜肝っ玉母ちゃんのブログ〜

40歳からの再出発〜肝っ玉母ちゃんのブログ〜

40歳を過ぎて人生の転機が訪れた看護師の記録。家庭、仕事、人生を素直な生きた言葉で感じていきたいです。

家族は家族であればいいー訪問看護ー

 

「家族は家族を看護できません

そこにはどうしても感情があるからです

 

奥さんは奥さんとして奥さんの役割をしてくれれば、それで良いんです」

 

訪問看護の説明をして下さった所長さんがおっしゃったことです。

 

 

一瞬で涙が溢れました。。

 

 

 

 

 

訪問看護の意義

 

家の中で、身動きがとれずにどんどん自分を追い込んで追い詰めていくいる主人に

心療内科の先生が訪問看護を勧めました。

 

 

どう生きていったらいいのか、もう分からん…

 

ただ生きていてほしい

 

 

そんな私の言葉は

主人の心には浸透しませんでした。

 

出口を…

道しるべを…

大丈夫やからこっちへ歩いてみて、と

指し示してほしい

 

でも指し示される道も本当に正しいのか信じられないのです。

 

 

訪問看護の方が話を聞いてみるだけでもと、受診の日に合わせて来てくださいました。

 

少し会話をしただけで、この人は…すごい、と感じました。

同じ看護師であれど、

専門分野に魂を注いでいるプロフェッショナルだと感じました。

 

主人も少しは感じたかもしれませんが、

自分にとって訪問看護を利用することが何のメリットになるのか、と話を聞く前から猜疑心の様な考えが強かったので、

利用する気にはなっていません。

 

訪問看護の意義を自ら質問していました。

 

そんな主人の思いを察してか、

決して押し付けたり説得という形ではなく

ゆっくりと丁寧に説明してくださいました。

 

 

訪問看護

医療支援、外出支援、就労支援、家族支援

と大まかにはこれらの役割、機能があるそうです。

意義という部分でいうなら、最初からこれです、とは今言えないけれど、

少しずつ感じていっていただけたらなと思います、と。

 

基本的には

話を聞いてもらうこと

が、訪問看護の実際なのだと思います。

 

話を聞いてもらって何がかわるのか、

主人の疑問です。

 

たしかにそこは私にも分かりません。

 

ですが、

なんらかの道しるべを一緒に探ってくれることになるのではないかと感じました。

 

 

三者の力を借りること

 自分の力だけではどうにもならない時があります。

そしてまた、家庭内だけではどうにもならないことがあります。

 

 

それが

今なのだと私は思っています。

 

 

 

 「一人で抱え込んで考えて悩んでいることを、周りに一旦任せてみてください

一人で解決しようと頑張ってうまくいってきたならそれでいい、

けれど今は一人で抱え込めないほど大きく苦しくなったのだから、

周りに任せたり頼ったりする勇気を持ってください」

 

心療内科の先生が主人におっしゃいました。

 

 

それを聞いて、

私は

主人が一人でなんとかしようと抱えこんで苦しんでいたことを改めて知りました。

周りに任せたり、頼ったりすることが、勇気なんだということも…

 

なんとかしてくれ

どうにかしてくれ

助けてくれ

 

と、いつも私に求められているように感じていました。

 

いつも答えを迫られているように感じていました。

 

だから、

私がなんとかしないと、といつも思ってきたのです。

 

 

冒頭で訪問看護の所長さんが言った言葉は

主人に向けても

私に向けても言った言葉だと思いました。

 

 

今、私たちは

私たちだけで現状をなんとかできる状況ではないのだと思います。

私たち以外の人にヘルプサインを出すべきなのだと思います。

  

けれども、どうするかを決めるのは

やはり主人なのです。

 

サポートの力を借りる抵抗

主人は、 訪問看護を利用することに対して

どうしても抵抗があるようです。

 

 

話を聞いてもらって何が変わるのか、という疑念。

訪問看護を利用することは、自分が精神的な病であることを認めざるを得ないということ。

そういった分野そのものへの不信。

  

聞くとそういった理由を話してくれますが、もしかするともっと複雑に多くの理由があるのかもしれません。

 

自分がどうしようもなく苦しい状況ということはわかっている…

でもそれを受け入れることがどうしてもできない

 

 

なんでこんなに認めるのが怖いんかな…と、辛そうに話しました。

 

受け入れて、助けを得て、なんとかしたい、とほんとうは思っているのだと思います。

 

受け入れること、認めること

 

 心の病は、受け入れてはじめてそこからはじまる

 

…とかなんとかいいますが、

 

それが簡単にできたら苦しまないと思います。

 

たしかにそうなのかもしれませんが、

はい、そうですか、分かりました、

とはいきません。

 

  

それまで普通に生活できていたのに、ある日を境に(それまでに徐々に何らかのサインはあったにせよ、当人にとっては)突如できていたことができなくなり、

 

それは精神的な病ですね、

といわれ、

 

血液検査のように、何がどのくらい異常なのか、目に見えてわかるものでなく、

 

この症状がこの病気です、と簡単に説明できるものでもなく、、、

 

 

実際、

気分がすごく落ち込んで憂鬱なんです

と言えば

鬱なのか

 

不安で不安で仕方ないんです

と言えば

不安障害なのか

 

鬱でも内因性、心因性があるし、焦燥感や不安感の強い鬱もあるし、体が鉛のように重く動けなくなる鬱症状もある…

 

 

鬱、で調べてみたら、山のように多くの症状が並んでいます。

ですが、同じ言葉で表現される症状であっても、

自律神経失調症でも当てはまるし、不安障害、適応障害、2型双極性障害……

病名って一体なんなのか、と思います。

 

 

問診で細かく正しい適切な診断ができるかは、医者の見立てよっても違ってくる…

 

 

そんな精神医療に不信や疑念をもたず

ある日を境に

そうか、私は心の病なのですね、

と受け入れることは、決して簡単ではないと思います。

 

治る、という部分においても同じです。

一定期間薬を飲んだら治る、という確約がない。

長年にわたって薬を飲んで症状を抱えて生活している方もたくさんおられます。

 

 

心の病気は、心の苦しみを心で向き合っていかないといけないから、苦しくて辛いですよね」

 

これもいつだったか、主治医の先生がおっしゃったことです。 

ほんとうにその通りだと思います。

 

  

なぜこんなに苦しいのか、と病院に行って診断をつけられたら、そうか病気なんだ、とほっとした、という方もいるようですが、

 

主人はそうではありませんでした。

 

 

 

不安や憂鬱な気分は、普通に生活していても在るものです。

それが尋常ではなくなり、日常生活に支障をきたすとやはり治療が必要です。

 

しかし、自分の中で

その線引きは曖昧なもので、

 

だから

自分でなんとかできるなら、

自分でなんとかしないと、

と思ったのかもしれません。

 

 

認める、受け入れる、という意味では

私も主人同様、簡単ではありませんでした。

もしかすると、まだ出来ていないのかもしれません。

 

一年前の何気ない日常を思い出して涙が溢れたり、こうなる前の主人の姿がどうしても思い巡るのです。

 

どうしても、昨年からの苦しい日々が、人生からプツッと途切れた断片のように感じて、

元の道に戻れなくなってしまったように思えていました。

 

 

 

最近になって、

今の主人の一歩が

これからの未来の主人につながるものだと思うようになりました。

今ある日々が、これからの未来の私たち家族に意味ある時間としてつながっていくと思えるようになってきました。

 

 

受け入れることの意味は正直よくわかりません。

 

受け入れ方もその人その人で違うのかもしれません。

 

 

ただ、はっきりわかることは、

私はどんな主人もすべてひっくるめて唯一無二の存在として愛しています。

 

大切な人です。

 

だから、

どんな人生の断片もすべてひっくるめて人生として受けとめていきたいと思っています。

 

 

私の人生は主人、家族あってのものです。

主人と子どもが、私の人生そのものです。

そこに理由や意味や価値なんてものは必要なくて、

ただ、妻として、家族として、

ともにこれからの人生を歩いていきたい、

ただそれだけです。