40歳からの再出発〜肝っ玉母ちゃんのブログ〜

40歳からの再出発〜肝っ玉母ちゃんのブログ〜

40歳を過ぎて人生の転機が訪れた看護師の記録。家庭、仕事、人生を素直な生きた言葉で感じていきたいです。

家族は家族であればいいー訪問看護ー

 

「家族は家族を看護できません

そこにはどうしても感情があるからです

 

奥さんは奥さんとして奥さんの役割をしてくれれば、それで良いんです」

 

訪問看護の説明をして下さった所長さんがおっしゃったことです。

 

 

一瞬で涙が溢れました。。

 

 

 

 

 

訪問看護の意義

 

家の中で、身動きがとれずにどんどん自分を追い込んで追い詰めていくいる主人に

心療内科の先生が訪問看護を勧めました。

 

 

どう生きていったらいいのか、もう分からん…

 

ただ生きていてほしい

 

 

そんな私の言葉は

主人の心には浸透しませんでした。

 

出口を…

道しるべを…

大丈夫やからこっちへ歩いてみて、と

指し示してほしい

 

でも指し示される道も本当に正しいのか信じられないのです。

 

 

訪問看護の方が話を聞いてみるだけでもと、受診の日に合わせて来てくださいました。

 

少し会話をしただけで、この人は…すごい、と感じました。

同じ看護師であれど、

専門分野に魂を注いでいるプロフェッショナルだと感じました。

 

主人も少しは感じたかもしれませんが、

自分にとって訪問看護を利用することが何のメリットになるのか、と話を聞く前から猜疑心の様な考えが強かったので、

利用する気にはなっていません。

 

訪問看護の意義を自ら質問していました。

 

そんな主人の思いを察してか、

決して押し付けたり説得という形ではなく

ゆっくりと丁寧に説明してくださいました。

 

 

訪問看護

医療支援、外出支援、就労支援、家族支援

と大まかにはこれらの役割、機能があるそうです。

意義という部分でいうなら、最初からこれです、とは今言えないけれど、

少しずつ感じていっていただけたらなと思います、と。

 

基本的には

話を聞いてもらうこと

が、訪問看護の実際なのだと思います。

 

話を聞いてもらって何がかわるのか、

主人の疑問です。

 

たしかにそこは私にも分かりません。

 

ですが、

なんらかの道しるべを一緒に探ってくれることになるのではないかと感じました。

 

 

三者の力を借りること

 自分の力だけではどうにもならない時があります。

そしてまた、家庭内だけではどうにもならないことがあります。

 

 

それが

今なのだと私は思っています。

 

 

 

 「一人で抱え込んで考えて悩んでいることを、周りに一旦任せてみてください

一人で解決しようと頑張ってうまくいってきたならそれでいい、

けれど今は一人で抱え込めないほど大きく苦しくなったのだから、

周りに任せたり頼ったりする勇気を持ってください」

 

心療内科の先生が主人におっしゃいました。

 

 

それを聞いて、

私は

主人が一人でなんとかしようと抱えこんで苦しんでいたことを改めて知りました。

周りに任せたり、頼ったりすることが、勇気なんだということも…

 

なんとかしてくれ

どうにかしてくれ

助けてくれ

 

と、いつも私に求められているように感じていました。

 

いつも答えを迫られているように感じていました。

 

だから、

私がなんとかしないと、といつも思ってきたのです。

 

 

冒頭で訪問看護の所長さんが言った言葉は

主人に向けても

私に向けても言った言葉だと思いました。

 

 

今、私たちは

私たちだけで現状をなんとかできる状況ではないのだと思います。

私たち以外の人にヘルプサインを出すべきなのだと思います。

  

けれども、どうするかを決めるのは

やはり主人なのです。

 

サポートの力を借りる抵抗

主人は、 訪問看護を利用することに対して

どうしても抵抗があるようです。

 

 

話を聞いてもらって何が変わるのか、という疑念。

訪問看護を利用することは、自分が精神的な病であることを認めざるを得ないということ。

そういった分野そのものへの不信。

  

聞くとそういった理由を話してくれますが、もしかするともっと複雑に多くの理由があるのかもしれません。

 

自分がどうしようもなく苦しい状況ということはわかっている…

でもそれを受け入れることがどうしてもできない

 

 

なんでこんなに認めるのが怖いんかな…と、辛そうに話しました。

 

受け入れて、助けを得て、なんとかしたい、とほんとうは思っているのだと思います。

 

受け入れること、認めること

 

 心の病は、受け入れてはじめてそこからはじまる

 

…とかなんとかいいますが、

 

それが簡単にできたら苦しまないと思います。

 

たしかにそうなのかもしれませんが、

はい、そうですか、分かりました、

とはいきません。

 

  

それまで普通に生活できていたのに、ある日を境に(それまでに徐々に何らかのサインはあったにせよ、当人にとっては)突如できていたことができなくなり、

 

それは精神的な病ですね、

といわれ、

 

血液検査のように、何がどのくらい異常なのか、目に見えてわかるものでなく、

 

この症状がこの病気です、と簡単に説明できるものでもなく、、、

 

 

実際、

気分がすごく落ち込んで憂鬱なんです

と言えば

鬱なのか

 

不安で不安で仕方ないんです

と言えば

不安障害なのか

 

鬱でも内因性、心因性があるし、焦燥感や不安感の強い鬱もあるし、体が鉛のように重く動けなくなる鬱症状もある…

 

 

鬱、で調べてみたら、山のように多くの症状が並んでいます。

ですが、同じ言葉で表現される症状であっても、

自律神経失調症でも当てはまるし、不安障害、適応障害、2型双極性障害……

病名って一体なんなのか、と思います。

 

 

問診で細かく正しい適切な診断ができるかは、医者の見立てよっても違ってくる…

 

 

そんな精神医療に不信や疑念をもたず

ある日を境に

そうか、私は心の病なのですね、

と受け入れることは、決して簡単ではないと思います。

 

治る、という部分においても同じです。

一定期間薬を飲んだら治る、という確約がない。

長年にわたって薬を飲んで症状を抱えて生活している方もたくさんおられます。

 

 

心の病気は、心の苦しみを心で向き合っていかないといけないから、苦しくて辛いですよね」

 

これもいつだったか、主治医の先生がおっしゃったことです。 

ほんとうにその通りだと思います。

 

  

なぜこんなに苦しいのか、と病院に行って診断をつけられたら、そうか病気なんだ、とほっとした、という方もいるようですが、

 

主人はそうではありませんでした。

 

 

 

不安や憂鬱な気分は、普通に生活していても在るものです。

それが尋常ではなくなり、日常生活に支障をきたすとやはり治療が必要です。

 

しかし、自分の中で

その線引きは曖昧なもので、

 

だから

自分でなんとかできるなら、

自分でなんとかしないと、

と思ったのかもしれません。

 

 

認める、受け入れる、という意味では

私も主人同様、簡単ではありませんでした。

もしかすると、まだ出来ていないのかもしれません。

 

一年前の何気ない日常を思い出して涙が溢れたり、こうなる前の主人の姿がどうしても思い巡るのです。

 

どうしても、昨年からの苦しい日々が、人生からプツッと途切れた断片のように感じて、

元の道に戻れなくなってしまったように思えていました。

 

 

 

最近になって、

今の主人の一歩が

これからの未来の主人につながるものだと思うようになりました。

今ある日々が、これからの未来の私たち家族に意味ある時間としてつながっていくと思えるようになってきました。

 

 

受け入れることの意味は正直よくわかりません。

 

受け入れ方もその人その人で違うのかもしれません。

 

 

ただ、はっきりわかることは、

私はどんな主人もすべてひっくるめて唯一無二の存在として愛しています。

 

大切な人です。

 

だから、

どんな人生の断片もすべてひっくるめて人生として受けとめていきたいと思っています。

 

 

私の人生は主人、家族あってのものです。

主人と子どもが、私の人生そのものです。

そこに理由や意味や価値なんてものは必要なくて、

ただ、妻として、家族として、

ともにこれからの人生を歩いていきたい、

ただそれだけです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

鬱になって新しい自分を見つける

昨年から主人は不安神経症に伴う鬱状態になりました。

 

これまでの自分のすべてが崩れる

 

18年間続けた介護の仕事を辞めて、ケアマネジャーの受験勉強に打ち込み、試験を受けて、終わった途端…

自分は何をしたらいいのか…

途方に暮れたようです。

 

 

試験結果が出るまで2カ月、合格ならそこから半年以上の研修を受けて、そこからはじめて、ケアマネジャーとして働くことになります。

 

 

それまでの間、バイトやパートをしようと求人を見ているうちに…

社会に出ること、働くこと、新しい環境、人の中に入ることが、どんどん不安になって怖くなっていきました。

 

自分には何も出来ないと、自分の自信全てを喪失していきました。

 

ケアマネジャーの試験結果は、

合格でした。

 

けれども、それは恐怖と不安の最中にいる主人にとってはどうでもいい事だったようです。


研修の案内がきて、研修の日程が近づいてくると、それはプレッシャーとなって主人をますます焦らせました。

 

社会とかかわること自体が出来なくなっていました。

 

 

不安神経症心療内科、お薬のことは、またの機会に書いてみるつもりですが、

少し触れると、主人は心療内科のお薬に対する恐怖、抵抗、拒否が強くなり、薬物治療そのものの恐怖と闘う時間が何ヶ月も続き、今はカウンセリングに通って、自分と一生懸命向き合おうとしています。

 

必要なお薬を飲めないままです。どうしても飲めないのです。

 

自力でなんとかしようともがけばもがくほどに、鬱症状は悪化しました。

 

そばにいる私には辛すぎて薬の必要性について何度も言い方を変えて伝えましたが、どんどん主人を追い込んでしまいました。

 

 

 

もう私から薬の事を言うのは

やめました。

 

 

 

新たな価値観をつくる

 

働きたい、働かねばならないのに働けないというプレッシャーと、

働いていない自分を責める、何もしていない、何も出来ない自分を否定するしか出来ない状況を、なんとか打破しないと、、

 

なんとかして自分が今ここに生きている価値を見出さなければと、主人がもがきながら今できることの意味づけを探した結果、

どうしようもなく考えたことが、

 

専業主夫」という新たな自分の役割、価値づけを自分に納得させる事でした。

働けなくて家にいる自分を許す方法として、です。

 

 

けれども、それはそれで、今までの自分の固定観念を変換していかないとどうにもならないようで。

 

男性が専業主夫をする、それはまた、そういう自分を認める、納得するという課題があるようです。

 

そうしたい、そうありたい、と思った訳ではなく、

今の自分にとっての苦しみを天秤にかけて、とりあえず何とか社会に出る不安から逃れる苦肉の策だったから故でしょう。

 

 

本当に自分はそれで良いのか、と苦しむ時間が過ぎました。

 

だからといって、社会に出る脅威が今の主人にとっては莫大で、ものすごく自分に負荷となってしまいます。

 

どっちを選んでも苦しい…

 

自分は甘えているだけなのか…

という考えがまた自分を追い詰めていました。

 

「甘えているのなら、そんなに苦しまれませんよ」

と、心療内科の先生に言われ、少し救われたようでした。

 

 

私はというと、

主人の心が落ち着いてくれるなら、ほかに何ひとつ望みません。

専業主夫でいい

私が働けばいい

男がどうとか、女がどうとか、どっちでもええやん、

 

今は、今主人がこうしようか、こう思ってみようか、というところを、

うんうん、それで良いよ、

と受け入れるしかないと思っています。

 

 

 

 

正直言って本当は働いてほしいです。

ですが、それは到底言えません。

私が仕事をかけもちしてでも主人の病気の悪化は避けたいのです。

 

でも、そこまでしている私を見てまた自分を責めるのだろうか…と思い、それもまだ言っていません。

 

働いてほしい、と思うのは経済的理由からだけではありません。

 

主人にとって働くことが

主人を輝かせると思うからです。

最終的には、生きがいをもって生きることにつながる何かを

取り戻してほしい、

私の願いです。

 

 

鬱になり、社会復帰が困難になる方は驚くほどたくさんおられます。

少し寛解に向かっても社会復帰するということは、他者とのかかわりも必要になり、それらがまた心理的な負荷となって再発してしまうという話もよく聞きます。

 

主人もまたそれを恐れています。

 

サラリーマンとしての人生しか知らなかった自分が、

生きる観点を変えていかないと…

今は、在宅でもできる仕事に取り組もうとしています。

 

 

何かに取り組もうとしてくれていることが、

今は喜ばしいと感じています。

 

 

ほんとうに自分が求め望むこと

 

働くこと、家にいること、

どちらも苦しい、こわい

 

どれほど辛いことでしょう

 

主人にとって一番いいのは何かを考えるようになりました。

 

恐らくは、

主人が自分は何がしたいのか、という答えを自分で見つけることだと思います。

 

 

 

本当にしたいこと、望むこと

それもわからない

だから出口が見つからない

 

今はそんな状況です。

 

おそらくは

仕事がしたい

好きな介護の仕事がしたい

それが今はどうしても出来ない…

のだと思います。

 

 

 

 

ー介護の仕事をしていた主人と出会いました。

物静かで、穏やかで、優しくて、

患者さんから

「にいちゃんが一番優しいわ」

といつも言われていました。

「俺優しいか?」と本心から自分では自分の優しさに気づいていないような人でした。

 

 

自然体で自分の世界を持っている、

人見知りで自分から積極的に話していくタイプではないけれど、

そんなじわっと伝わる魅力に自然と人から慕われる、そんな人です。

 

同じモチベーションの仲間と仕事できている時は、生き生きとしていて、

この人は介護の世界が好きなんだなぁと私は感じでいましたー

 

 

そんな主人の姿が

心に焼き付いています。

 

 

そんな自分の姿を

主人はもう遠く取り戻せないものと感じています。

思い出せないといいます。

 

 

自分から

自分はこうありたい

自分は本当はこれがしたいんだ

 

という言葉を主人の口から聞く日を

待つしか

今の私にはできません。

 

 新しい自分

 

心の病になって

それまでの自分が崩れてしまったように感じて

何もかも失ったように感じて途方に暮れて

ただただ時間だけが過ぎていく、


毎日主人を苦しめている思いです。


 


そんな主人が

新しい自分を見つけていくことは、

 

専業主夫がどうとか

新しい社会的位置づけといったくくりを見つけることではない、


と私は思っています。



それまで自分の考え方や感じ方を

少しずつ緩めて

自分を認めて肯定していく

心の作業なのだと思います。

 


ゆっくりゆっくり時間が必要です。


次の機会に書く予定ですが、

妻である私は

この

ゆっくりゆっくりに

歩幅を合わせて

ともに人生を歩いていくことしかできないと

今は感じています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

家族として寄り添うこと

臨床心理学を学び、心の病いや心の現象について、一般の方よりは知識が少しある私は、

 

主人が徐々に苦しみの中に入っていっていった事も、苦しみの中から出てくるメッセージにも、気づけなかった。

 

苦しみの中から必死に脱け出そうとしている主人を助けられない。

 

自分を責めました。

 

でも、

そんなこと、関係ない

 

症状、病気ばかりに目を向けたところで、何の意味もないのかもしれません。

 

私は心の専門家ではない。

妻であり、家族です。

それ以上でも以下でもない。

 

 

 

 寄り添うって簡単に言うけど…

辛い思いを抱えて苦しんでいる人には、寄り添う事が最も大切で必要な事です。
 
よく目にするし、耳にするフレーズです。
 
寄り添うってどういう事なんでしょう。
 
看護の世界でもそうです。
健康を害した人の痛みや苦しみに寄り添う事が、看護師に求められる最も大切なことだと私は思っています。
どれだけ知識や経験があるベテラン看護師でも、患者さんの苦痛を和らげる看護が出来ていない看護師もいます。
一年目の新米看護師であっても、患者さんにとって気持ちの側面では寄り添う努力ができる看護師もいます。
 
寄り添う事…永遠のテーマなのかもしれません。
 
正直、寄り添う看護ってどういう事なのか…
私自身、常に悩んでいる事でした。
 
経験年数は問わず、素晴らしい看護が出来ている場面には素直に感動し、吸収しようといつも努めていました。
 
 
そして、
主人が病気になった。
 
家族として寄り添いたい。
自分にできる事はそれしかないから。
出来る事の全てをしたい。
必死でした。
 
不安と恐怖でいっぱいの主人に、その不安をなんとか和らげたい一心で、
自分だったらこう考えたら楽になる、こう考えてみたら?こう捉えてみたらどう?
 
思いつく限りの対処や視点の切り替えができるよう声をかけました。
時には黙ってただそばにいたり…
 
辛い気持ちを分かってあげたい
そしてともに乗り越えたい。
 
 
私がしたことは
単なる押し付けだったのかもしれません。
 
 
結果論ですが、
主人の思いを無視して、自分の土俵で主人の不安と対峙していただけのことであり、
寄り添う事とは程遠いものだったと
随分経ってから分かりました。
 
自分の思いが乗せられれば乗せられる程、主人にはそばにいる私が遠く感じたのかもしれません。
 
私はもう途方に暮れていました。
 
どうしたらいいのか
もう分からなくなっていきました。
 
 

暖かく無関心?

精神的な病を抱える家族への対応として調べていると、「暖かく無関心」である事、と記されていました。
 
暖かく無関心…
 
……
 
 
分かる人には分かるのでしょうか。
 
振り返ってみると、そうそう、ほんまにその通り!と思うのでしょうか。
 
その表現が最適!なのでしょうか。
 
苦しみもがく家族を前にしてどうしたらいいのかわからなくて…
 
そんな時に
これほど具体性のないアドバイスは、私には何の役にも立たなかった。
 
抽象的な表現すぎて私には良く分からなかった。
 
心の病といっても一人一人そこに巡る思いはそれぞれで、何が正解で何がフィットするかは分からないのだと思います。
 
暖かく無関心を意識して態度に示そうとすうと、
無関心が前に出て感じられた場合、見放されている、と感じる人もいるでしょうし、
努めて自然に周囲が過ごすことを、自分がいなければ家族は以前と同様に自然な日常を過ごせるのか、と自己否定に結びつける人もいるでしょう。
 
かといって、気にかけすぎたり、気をつかいすぎても、それは精神的な圧迫感を感じさせてしまいます。
 
そうなると
より一層、孤立感を強めてしまうこともあるかもしれません。
 
暖かく無関心…この抽象的な表現を具体的な対応として実践することは、身近な家族であればあるほど、とてつもなく難しいことだと思います。
 

話を「聴く」ということ

 とにかくひたすら「聴く」事をしてみようと思いました。

相手が何を伝えようとしているか、本当に「理解して」「聴く」ことは、

実は本当に本当に難しいことです。

 

言葉として出てきたものを理解するとき、人は必ず自分の心のフィルターを通して理解します。

自分の捉え方の「癖」があるものです。

 

本当に相手が何を言いたいのかを理解するには、この事を常にわかっておかなければならないと思います。

 

 

簡単ではないです。

 

 

「働く事がこわい」「家にいるのも何もしてない自分を許せなくて苦しい」

 

主人の口から出た言葉です。 

毎日この苦しさの中にいます。

 

働く事の何がこわいのか、そこには芋づるのように多くの不安が絡まっています。

その怖さがあって今家にいる事しか出来ない。

でも家にいるだけの自分を認められず責めてしまう。

 

何て答えてあげられますか?

 

だったら、こうしたらいい

こう考えてみたらいい、

 

それがでけへんから苦しいねん。。

 

ますます主人を追い詰めました。

 

 

どの方向を指し示されても

今はどちらにも行けず、

身動きがとれていない、

その現状自体が苦しいんだ、

 

その苦しすぎる自分をわかってほしい

 

本当に主人が伝えてわかって欲しかった思いは、ただそれだけだったのかもしれません。

 

それに気づいたのは本当に最近の事です。

 

抜け出すための解決策を教えてほしい、という気持ちばかりに気を取られて必死に解決策を考えて伝えても

今、ほんとうに言いたいことを聴いていることにはならないと思いました。

私にも焦りがあったのでしょう。

 

ほんとうに言いたいことを聴いてわかること

 

寄り添うことの一歩かもしれません。

 

自分の想いを伝えること

結局行き着いた先には

正解の形なんてどこを探してもない

 

私が主人をただただ唯一無二の大事な大切な必要な存在として思っていること

 

その思いそのものが

答えを見いだしてくれるのだと思います。

 

 

どれだけ大切に思っているか

どれだけ相手の力を信じているか

どれだけ相手の勇気や頑張りを感じているか

 

妻としての思いを伝えることだけは

私が一貫してしている事です。

 

 

ぶつかり合うこと

主人とはもともと喧嘩なんてほとんどしませんでした。
たまには勿論ありましたよ。
でも、いつも思い合っているのにそこに誤解が生じたり、言葉尻でちょっとしたズレが生じて、お互い冷静になれなかっただけ、とすぐ話し合えて、互いの思いや考えを伝え合い、ごめんやったなぁと仲直りできていました。
 
 
主人が病気になってから
心が苦しすぎてどうしようもなくて
何度も激しくぶつかり合いました。
 
主人は勿論のこと、私にも心の余裕がなくなっていたのだと思います。
 
 
そして私は
主人を傷つけてしまうのではないか…
余計な刺激になってしまうのではないか…
と、
 
主人に何も話せなくなっていきました。
 
言葉は浮かんでも、口に出せなくなっていました。
 
そんな私に
「なんて声かけていいかも分からんなったかぁ…」と
辛そうに言いました。
 
思いは溢れる程あっても
何と声をかけていいのかがわからなくなって
一番辛かった時でした。
 
これじゃあかん。
家族やのに。
こんなに大事やのに。
どう受け取ろうが、思ってることを言えないなんて悲しすぎる!!
 
そして
ぶつけました。
思いの丈を全てぶつけました。
 
お互い思いきり泣きました。
 
 
どんな時でも
ほんとうの思いは、ほんとうの言葉として必ず伝わるものです。
 
それが一瞬しか心に浸透しなくても
病を抱える人、病を抱える人を支えようとする人である前に
 
私たちは家族なんだという事を取り戻せた瞬間でした。
 
 
 

家族として寄り添い支えること

まだ主人は闘っています。
私も妻として支えることを模索しながら毎日を過ごしています。
 
結局のところは、主人自身が乗り越えていくものだと思います。
 
ですが、主人が乗り越えていけるように歩む一歩を支えることは出来ると思います。
 
その少しの一歩を安心して歩み積み重ねていくことをともに感じ喜ぶ事はできます。
 
その喜びが一つずつ
主人の喜びや勇気や希望のかけらにしていけるように支えることはできると思います。
 
誰が何と言おうが、
この世の中で
主人の純粋さや素直な心を知っているのは私だと自信を持って言い切れます。

 
だからこそ、
主人が回復できると心から信じています。
 
私の底力が主人の力になると信じています。


結局、
寄り添うとは、こういう事です!!
という答えは出ないままですが…


今、出来ることをするのみです。


 
 
 

職場復帰スタート

復職して二週間が過ぎました。

現時点での気づきを残したいと思います。

 

単なる緊張?少しの揺れが症状を連動させる思い込み

 

私自身も不安や心配が強くなるとパニック症状のような症状がでるようになっています。

 

そして自分の中で知らぬ間にそれが「症状」として固定されてしまったようです。

 

うまく伝えにくいのですが、何もなかった以前の自分でもあった普通の緊張や心配、不安感…程度のものだったはずが、

少しそれを感じると、ものすごくしんどくてキツい時の症状の感覚に連動していく感じです。

 

今日はあの仕事が迫ってるから間に合うかな…ちょっと苦手な人に会う時、なんか嫌だな…大丈夫かな…といった不安がよぎる事は普通にあると思います。

実際、無事終えて、はぁ〜終わった〜良かった〜、とか

まぁなんとかなるか、大丈夫大丈夫、とか…

 

その時の心の落とし所というか、問題解決の過程といったものを

 すっかり忘れてしまっている

 

そんな感じです。

 

恐らく一旦壮絶な感覚を味わってしまうと、もうその感覚にとらわれてしまうのかもしれません。

 

「症状」そのものにとらわれてしまうと

前はなんてことなかった程度の揺れや少しの揺れが、

いとも簡単に、大きな揺れと結びついてしまう、そしてそれに怯えてしまう

 

今、自分がその状態にあることに気が付きました。

 

なんや、これはW(`0`)W

 

 

何度も何度もそんな事があって、嫌気がさしてきたとき

もしかすると、勝手に自分がその「症状」に結びつけてるだけ??

 

という思いが浮かんできました。

 

脳科学的にはもしかすると、

恐怖や不安を感じるシナプスの回路が強くなってしまって、少しの不快な刺激がそのルートをすぐ選んで通ってしまう現象が起きている、という説明になるのかもしれません。

 

確かにそうなんでしょう。

 

それを医学的には薬物療法で緩和させ、その間に心の方の安全回路を強化させていくのだと思います。

 

 

けれども

そこに結びつてしまう自分の心の回路をほぐしていくのは、やはり自分の心の努力なのかなと思います。

 

大丈夫、、という安心回路を

しっくりと実感して、しっかり気づくことが必要なんだと思います。

 

そのしっかり気づくことが出来るのは、ある程度の心の余裕の部分というか、心の余力が必要なのだと思います。

 

その余力のために、お薬の力を借りる、お薬を活用することが必要な時期はやはりある、というのが私の体感から思う事です。

 

やはりお薬は、「松葉杖」になり得ると私は思うのです。

 

 

 スタートをきるというハードル

3ヶ月の休職を経て仕事に復帰するという事は、案外大変な事でした。

ちょっと列挙してみます。

 

・朝起きて身支度を整える⇒ついにいよいよ始まるんだという不安と緊張

・職場にいくために電車に乗る⇒到着までが長く感じるが到着してしまうといよいよ感…。

・自部署についたら挨拶をしないといけない

・周りに余計な気遣いをさせないようにしたい

・初日の自分に与えられた仕事を確実にこなせるか不安

・業務を正確に行えるか心配

・必要な時にはヘルプサインを出せるか

・合間では普通の会話、コミュニケーションをとることができるか

・初日が終了しても翌日がある…

 

こういったことが、始まる前から大きく大きく不安要素とくっついて目の前に立ちはだかる、そんな感じでした。

自分でも驚くほど、です。

 

 

いざ、始まってからも、頭の中はというと、

私ですらこんなに不安で緊張しているのに主人がいつの日かスタートをきる日がきた時、

どれほどの勇気、覚悟、エネルギーがいるのだろう…

という心配でした。

 

そんな事が頭をよぎると、またやはり不安と心配で息が詰まってくるのだからまぁ厄介です…(*´Д`*)

 

結局、初日を終えたらくたくたでしたが、

 

初日がないと翌日がないわけで…

始まりがないとそこから積み重なる過程はないわけで…

一歩だけでも踏み出すから、次の一歩があるわけで…

 

どんなスタートであってもいいから、スタート地点に立った事そのものに意味があると思えました。

もっと言えば、スタート地点に立ってみようと思える事そのものが、もうすでにスタートに向けた勇気が持てた、ことなんだと思います。

 

  

集中するということ

 復帰直後は、やはり元通りの自分ではなくて、なかなか仕事に集中ができない自分がいました。


目の前のことより不安感が圧倒的に幅を占めていて、集中しようとしても、不安や心配事が浮かんできて、それに伴った胸のどきどきや、ざわつきにどんどん意識がいってしまいます。

そしてそんな症状を意識すればするほどどんどん目の前のことに集中できなくなる、そして不安感が頭と心全体をぎゅうじる、、

 

最悪のループです。

 

無理やり頭を横にふって不安や心配を跳ね飛ばそうとしていました。

 

こんな状態で、このまま自分はやっていけるのか…と、また不安になりました。

 

 

なので、私が努めてしたことは…

 

 

今、目の前のことをただただこなす。。

です。

 

自分の中に巡る思いや考えは一旦お休みしてもええやないか、、

意味なんて後からついてくる、

いやでもまた色々考える自分が不安や心配を連れてやってくるやろうし、ほんなら今だけは何も考えずに、目の前のことだけに、一度身を投じようではないか、

 

と、思うようにしました。

 

実際には、「心を投じよう」かもしれませんが、何故か私には、「身を投じよう」の方が、心身まるごと目の前のことに集中する自分に持って行きやすかったです。

 

それは最初は上手くいかなかったけれど、

 

それこそ努力を要したけれど、

 

少しずつ目の前のことに集中できてきている自分がいました。

 

その時はただ必死でも、

そうなれる自分がいることに、おや?と気づく時が訪れると思います。

 

 

そこに自分を投じるか、回避するか

不安障害では、時に暴露法といって不安な状況の中に身を投じ、克服していくという治療法があるそうです。通常の心の状態の人からいえば、いわゆる「慣れ」なのでしょうが、まったく次元が異なると思います。


ちょっとこわいな、緊張するな、なんか苦手で不安、

やってみたら、あ、意外とできた、

不安障害のある方にとっては、そんなホップステップジャンプのようにひょいひょいできるものではありません。

 

だから苦しいんですから。

それが出来ないのがこの症状の苦悩なんだと思います。

 

(暴露法や行動療法、認知療法認知行動療法などは必ず専門家の専門的知識とサポートがあってこそだと私は思ってます)

 

しかしながら、やはり不安が強いとその状況を回避する、それも当然の心の動きです。

 

回避することで、その不安がなくなるか…

それは難しいと思います。

回避すること自体がその不安を斜め後ろに感じているというか、意識は

よりその不安にかられているように感じます。

 

だったらどうすればいいか…

 

正直難しいです。。簡単ではないです。

 

私の体感としては

不安状況に自分を投じているのか

不安状況を回避しているのか

 

そんな自分の心の向きを

「意識しない事」への慣れなんじゃないかな、

と思います。

 

どちらか一方に向いていると思った時点で、心に異常なまでの構えができてしまう

 

その構え自体が自分の心のとらわれを強めてしまう気がしました。

 

 

とはいえ、この構えを緩める事が容易にできたら苦労せんわい、とも思うところです(*´Д`*)

 

 

共存すること

ともかく、二週間が過ぎて、今思う事は


大丈夫という感覚や大丈夫だった事を塗りつぶすほどに前面に牛耳っていた不安や心配や緊張の塊が

 

徐々に、

本当に徐々に、小さくなっていって、

大丈夫という感覚の面積が広くなっていきつつある、

それで良いんだということです。

 


不安や心配や緊張 が完全になくなるなんて事は実際生きていて無い訳で

それらが過度に大きくなって占めていた部分が少しずつ大丈夫感と共存できるようになるのだと思います。

 

ほんの少しだけでも大丈夫感が不安感を上回ったら、もう日常で取り扱える不安感として共存していけると思います。

 

そうなれば、もう「症状」にとらわれない、「症状」が悪でも恐怖でも弱さでもなくなると思います。


そのプロセスの中で、行ったり来たりは必ずあると思います。

 

けれども、大丈夫になる自分、自分の生きる力を信じて、それを希望の光として信じていれば


主人にも必ずその日が来ると

私は信じています。

絶対に諦めません。

 

 

 

 

自分の人生の主役は自分だ

 

人生グラフで考えてみよう

よくテレビで芸能人が自分の人生のなみを折れ線グラフにして、あの時はああだった、こうだった、てやってますね。
あのグラフを自分の頭の中でやってみたら今はどうだろう、と考えてみました。
さらっと振り返ってみる為です。
きちんと過去の出来事を振り返り、今後に生かしたいと考えるならば、人生グラフを作成することをお勧めします。

 

人生グラフとは

人生グラフはモチベーショングラフとも呼ばれるもので、自分の人生の浮き沈みを折れ線グラフで表し、どんな時に喜びを感じ、どんな時に悲しみや苦しみを感じたかを客観的に可視化することで、自己分析にもつながるのだそうです。
キャリアデザインなどの研修でもよく取り入れられています。

横軸が時間、縦軸が人生の満足度を表し、今までのライフイベントとともにその時の自分のモチベーションを振り返って結んでみます。

作成したら、何が原因でその状態になったか、そしてどのように克服していったかなどを冷静に振り返ると、自分の強み、弱みを知るきっかけになる、というものです。

 

過去の出来事を振り返る

今回は、自分の人生の歩みを振り返ってみたいと思っています。

誰も興味ない、、( ・∇・)

自分のために書いています。しかもきちんと人生グラフで分析するわけでもなく、なんとなく大事なことを感じたから書き残したいと思います。

 

私が本当の意味で家庭を味わったのは、小学3年から4年の2年間だけだったように思います。

生まれてすぐ母が病気になって入院していたので、私は伯母のところに預けられて、それはそれは本当にお世話になって、感謝しかないです。
ですが、本当に自分が望むこと、言いたいことは言えなかった。
言わない方が良いと思っていました。
全身で、全心で誰かに甘えることは出来ませんでした。
月に一度か二度、父に連れられて母の病院にお見舞いに行く。
父は毎日朝から仕事に行ってそのまま母の病院へ行って、私が寝た後に寝るためだけに伯母の家に戻る。
母の病状が落ち着いて退院して家族3人で初めて生活できたのが、その2年間でした。

母が作る食事の味は今でも覚えているし、母がつまらないことで大笑いした時の顔も、私が母から叱られた日は決まって父が後から優しく話しに来てくれたことも、夏に連れて行ってもらったプールで食べたソフトクリームの味も、後にも先にもたった一度の家族旅行の淡路島のことも、
全部はっきり覚えています。

小学6年の5月に母はまた入院しました。
修学旅行の準備は自分でしました。
夏休みに友だちと遊んでいると、別の友だちが伯母や従兄弟が私を見かけたらすぐ帰るように言っていたと知らせてきました。

妙に嫌な予感がして、すぐに帰れなくて、夕方帰るとすぐに車で病院に連れて行かれました。病院へ向かう車のラジオから流れていた曲も覚えています。
病院に着くともう母は意識がありませんでした。

それから半年くらい、どう過ごしていたのか、全く記憶がありません。

中学、高校、大学、と
伯母のところでの居候生活は変わりませんでした。
父は父で、色々な事情と、思うところがあったようで、伯母の家を出て行く選択はしませんでした。
細かいことは言い切れない程ありますが、私はその生活が苦痛でした。

18歳の時、母の実家を継いでいた叔父が亡くなりました。叔父夫婦には子どもがいませんでした。母の実家は旧家だったので、絶やす訳にはいかないという話になり、養子として私がいく事になりました。
結婚に対して何の憧れもなかった私はお見合いでもなんでも別に構わなかったし、何より亡くなった叔父の奥さんが私を可愛がってくれていたので、承知しました。
将来的には後を継ぐという責任を引き受けました。戸籍から一人娘が抜ける事を父はどう感じたのかは今となっては分からないけれど、承知した父に少し寂しさを感じました。
そして、伯母に感謝はしていたけれど、息が詰まるような毎日から正当に逃げ出す理由が欲しくて、社員寮がある仕事を選び、寮に入らないといけないと嘘をついて、一人暮らしを始めました。

ただただ、自由が欲しかった。
そして、お金を貯めて大学院に行きました。

26歳の頃、主人と出会いました。
不思議な巡り合わせが重なって、初めてゆっくり話す機会があり、自分の中に今まで味わったことのない感覚が芽生えました。
何ひとつ取り繕う事もなく、今まで押し殺してきた本当の自分と初めて出会ったような、主人といる自分の空間が、まるごと昔からあるもののような懐かしい感じがして、2人でひとつのような、なんとも不思議で、それまで生きて初めて心の底から穏やかになったようでした。
あ、この人と結婚するな、とその日に思いました。
結婚するなら、婿養子になってくれる人を…という事になりますが、主人は長男です。
主人の両親は、婿養子にはできないと言いました。

私は自分の引き受けた責任を果たすことが出来ませんでした。

親戚中にひたすら頭を下げました。
自分の生きたい道を、意思を通しました。

それからまもなくして、父が病気になりました。
そして、私が看護師になって3年目に亡くなりました。
親孝行は何ひとつ出来ていません。
私は伯母の家を出た時も、養子縁組を解消した時も、父から逃げ出したようなものです。
父は、何を言う訳でもなく、私の意思を受け入れて許してくれました。

そんな私にとって、いつのまにか、あたたかくて、笑いの絶えない、帰ってくるとほっと安心する、辛いことや苦しいことがあっても支え合える、そんな家庭を築くことが私にとって人生最大の夢となっていました。

その夢は、私の土台として叶いました。これほどありがたい事はありません。当たり前にそこにある家庭を当たり前と思わず、毎日感謝していました。
何気ない日常が穏やかでした。

子どもには、この家庭が当たり前であってくれたらいい。この子には、普通に心に宿る家庭を与えてあげよう。
人生グラフでは、結婚してからぐぐっと上向きで穏やかな安定線となります。

 

今の自分はどう?

今の私はというと、、

 

昨年の今頃からは明らかに下降線だけど、、

これまでの山あり谷ありのどん底ではないな、と。

 

なんでやろ…こんなに苦しいのに

 

ここ数か月、一言でいうと・・・・・

地獄

でした。

本当に本当に毎日毎日毎日毎日、苦しくて苦しくて心がえぐられているような感じで、作り笑いもできなくて、なんでこんなことになったんや・・・の日々でした。

主人は、もっともっと計り知れない苦しみの中にいた、いる、のだと思います。

 

・テレビが見れない、音が頭に突き刺さるという主人のために、テレビはつけない

・子どもと3人で過ごすことは、幸せを失ってしまう不安に襲われるといって、一人寝室にこもる

・食事も食べられない、家族で食卓を囲むなんて到底無理なので、せめて少しでもと寝室へ食事を運ぶ

・仕事もしないで家にいると思われるのが苦痛で窓は開けられない

・結局自分の苦しみはわからない、と私とも話せないことも…

賑やかだった家庭は静まりかえっていました。

 

そんな地獄のような日常でも、私の人生のどん底ではなかったのです。

あ、その時はどん底と思ってましたよ(u_u)

 

それでも振り返ると、人生のどん底ではない

なんでかな…

 

理由はすぐに分かりました。

 

そこに私の大切な家庭が「在る」からです。

どんな状態であっても、大切な大切な家族がいるからです。

 

主人と結婚をして、子どもを授かって

あー、今までこんなに安心して幸せやなぁて感じたことなかったなぁと心から感じて、心が温か〜くなって、

これが自分が求めていた家庭ってもんなんやなぁ〜という、目には見えない土台の上での苦悩だからだと思います。

 

どう転んでも人生一度きり

大きな流れの中で今を見つめる

主人が病気になりました。

何が何でもこの家庭、家族を守り抜く、

毎日その決意のようなものを心の中で繰り返していました。

 

その決意が自分を必要以上に追い込んでいました。望み描いてきた家庭が崩れていくような恐怖で、必死に守らないとと、しがみついていたのかもしれません。

父と母の仏壇の前で、一人息を殺して泣きました。

追い込むとどんどん希望が諦めになっていきました。

普通の家庭、普通の幸せを求めてただけなんやけどなぁ…

求める事もあかんの?

こんな生活いつまで続くの?

と、答えが返ってくることのないその場所で問い続けました。

 

何ヶ月もぐるぐるぐるぐる…負のループです。

苦しみや悲しみ、不安の中にいるときは、果てしなく続くようで、これ以上の苦しみはないような気がして、出口の見つからないトンネルで立ち往生しているような気分です。

 

心に余裕が出てきたら、一度、人生というものを大きな流れでとらえてみることで、意外と「今の苦悩」から距離をとることができるかもしれません。

距離をとることは、客観的に捉えられることにつながります。

もちろん、その時は、簡単にできることでないと思います。けれども距離をとることで、それを眺めて、動かしてみて違う角度から見てみたり、取り扱えるようになるということだと思います。

この取り扱えるようになる、というのはとっても重要です。

わけがわからない、得体のしれない感情にさらされると人間は混乱します。

わけがわかり、取り扱えるようになったら、もうこっちのもんだと思います。

カウンセリングや認知療法などが効果を発揮するからくりは実はここにあるのだと私は理解しています。(この話はまた…)

 

人生の主役

この記事の題目の部分です。

ある日、ふとした事で子どもと笑い合ったとき、

このままじゃあかん

自分が諦めてどうするんや

自分が希望を捨てたらあかん

人生一度きり

なるようになる、なるようにしかならへん、どんとこい

と、肝っ玉母ちゃんが目を覚ましました。

 

結局、家族、家庭と言いながら、自分ひとりの世界で答えを出そうとしていたような気がしました。

守るべきものは自分で守らなければ誰が守るんや、と思えました。

 

朝ドラ「まんぷく」で、萬平さんが梶谷さんに「あなたの人生の主役は、あなたなんですから」と伝える場面があります。

いま、その言葉が、とても心に染みます。

自分次第で人生どうとでもなる、と思えます。

自分の感じ方、考え方、捉え方ひとつで、殻に篭ることも、切り開いていくこともできると思えます。

 

どうせなら、切り開く方にエネルギーを注ぎたいものです。

その中でどうしようもない事が起こるのも、それまた人生。

その時はその時で、流れに任せながら…

いかに自分の人生、自分自身の舵をとるか…ですね、課題です。

 

そんなえらそうなこと言いながら、前に向かっているエネルギーが揺らぐことはあります。そりゃそうです(^^:)しゃあないしゃあない。。

けれども、

自分には人生において唯一無二の大切なのものがある、、その事だけは胸において、存分に主役を全うしたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

妻として母として、看護師として

以前、同僚からこう聞かれました。

「家のことと、仕事、大体何%くらいずつの割合で力注いでますか?」

 

え…

ん…

 

私には問われている意味がよく分からず…

「どっちも100%ですかね。そんな風に考えたことないなぁ…」

と返答しました。

「えーー!ありえへんー!

私、それでいつも悩むんですよ!!仕事も家のことも、ってなったら両方中途半端になってる気がするし、じゃあ、自分のことは?ってなったら、自分の楽しみとかに使う時間、もう何年もほったらかしで!

もう、いーーってなるんです。

そんなんならないですか?」

 

ならないなぁ…

どっちも全力、それが普通、それが自分、

本気でそう思っていました。

 

この会話をした時、

私は何も分かってなかったのかもしれません。

自分というものも、自分のために生きる、家族のために生きる、ということも。 

 

 

これまでの私の日常といえば、

日勤の日…

朝早く起きて、子どもの朝食の支度をし、自分の準備を済ませて、子どもを起こす。

子どもに食べさせ、子どもの支度を手伝う。

送り出すのは主人に任せて急いで早めに職場へ向かい、日勤業務開始。

仕事が終われば、夕食の献立を考えながら買い出しをして帰る。

帰るなり夕食の支度をしながら洗濯を回し、翌日の子どもの準備をする。

夕食を終え洗い物、片付けをして、洗濯は夜に部屋干し。乾いた洗濯物は主人、子ども、自分に分けてたたんで収納。アイロンするものはアイロン。

子どもと風呂に入り、布団を整え、翌日の朝食の段取りや、自分の準備を整えておく。

 

夜勤の日

子どもと主人を送り出し、主人でも準備できるよう、夕食の支度や準備をしておいて出勤まで仮眠。掃除、洗濯。

13時からシャワーをしたり出勤前の支度をして15時前後に家を出て、夜勤業務に入る。

 

夜勤明けの日

帰宅してシャワーをして、掃除、片付けを済ませて出来る日は仮眠。

子どもの帰宅時間に起きて、諸々の用事を片付けていく。

そしてまた夕食の準備からのルーチンワーク

 

休日

普段できない掃除、リネン類など大物の洗濯などなど、、家事の合間に録画してあったテレビ番組を観ながら食事をしたり、少しのリラックス時間を味わう。時々看護の勉強会などに参加。

 

仕事でも、まだまだだけど、自身の研修や後輩指導、担当する役割を遂行するためにできるだけの事をする。

理解不足と感じることは、ひたすら勉強して実践できるよう深める。

そんな中で、自分の看護を振り返る。

自覚はなかったけれど、同僚に言わせると何事にも真剣、真面目、熱い、タイプらしいです。

 

そんな日々でした。

これが普通で、自然なことだと思っていました。そこに何の疑問も感じませんでした。

 

ある時、主人が何日も眠れていない、自分には何もできない、仕事が怖い、

「俺、もう、あかんわ…」と泣き出しました。

その時から主人の苦しみは始まりました。

私にとっても、毎日が闘いとなりました。

 

ギリギリまで家に居て、待っててな、と不安で押し潰されそうな表情の主人を背中に感じながら仕事に出て、

仕事中は、大丈夫かな、今どんな風に過ごせているのか、早く帰らないと、と心配に潰されそうになりながら、ただただ仕事をこなして、

「すいません、お先に失礼しますー」と急いで着替えて電車に乗り込み、

駅から自宅に向かう道を自転車を立ちこぎで帰る。

帰ったら…悲壮感と不安、恐怖に耐えて過ごしたどん底の顔をした主人に向かう。

気にかけながら夕食の準備をして子供に食べさせる。少しでも子供との時間を、と、せめてお風呂は一緒に入り目一杯スキンシップをとるようにする。

毎日、帰り道は

「絶対諦めへん、負けへん」と声に出しながら家に向かう。

毎日一人で泣く。本当は泣き叫びたい。

「だれか助けてよ。どうにかしてよ。何もなかった、普通に笑えてたパパを返してよ。つまらない事で三人で笑って暮らしてた家庭を返してよ」と、何百回も心で泣き叫びました。

子どもの前ではそんな自分ではいられない。

子どもは私の笑顔が好きと言ってくれます。

いつも、誰にでも、どんな時も笑ってるお母さんみたいになりたい、と作文に書いてくれました。

母として、子どもの健やかな心の為に、笑っていないと、しっかりしないと、と毎日言い聞かせていました。

 

そんな時間が何ヶ月か過ぎた頃、

夜勤中に突然胸や喉元あたりが掴まれたような苦しさと、手足の震え、頭の芯の部分からぞわぞわと痺れてくるような感覚が襲ってきて、血の気が引いたような、立っていられなくなる異変が起こりました。

その瞬間、よぎったのは、

「あかん、私まで何かあったら子どもはどうなるん?あかんあかん!」

焦れば焦るほど、どんどん怖くなって、もうパニックになりました。

 

仕事中、何度か同じことが起きて、ある日は仕事に向かう電車に乗れない、かといって帰ることもできない、、駅で動けなくなり泣きながら職場に電話したこともありました。

 

それでも毎日必死でした。

そんな中、主人を一人に出来ない状態になりました。

そして、職場にしばらく休ませてほしいと願い出て、休職させていただく事になりました。

 

3か月の休職…

もっともっと長く感じます。

この時期のことはまた別の機会に書こうと思っています。

 

 

主人が病気になって、本当に本当に色々なことを感じ、考えました。必死にもがきました。

3か月という休職の時間、私自身も心の歯車が壊れたような瞬間もありました。

そんな時間を過ごして、主人と向き合ううちに、自分自身と向き合うことになったのかもしれません。

 

これまで当たり前のように感じてしてきた事、これが自分の生き方だと信じて疑わなかった生き方に、

ちょっと待って、と一旦ブレーキをかけてくれたのかもしれないと今は思います。

家族あっての自分

自分あっての家族

自分自身が穏やかに、健やかにいられるからこそ、家族も健やかでいられる

そんな家族のために

家族とともにあるために

自分を大切に生きていたい、と今は思います。

 

自分を見つめる、自分と向き合う、自分を認める、自分を許す、自分を信じる、、、

簡単なことではないと思います。

もし、このブログを読んで下さる方の中に、同じような苦悩を感じている方がいらっしゃるなら、

一旦、立ち止まって人生の休息を自分に与えてあげることをしてみてほしいです。

日々生き生きとやりがいを感じて精一杯頑張っている方も、自分への心の休息をあげてみてほしいです。

また、病いの中で思うようにならず苦しんでおられる方も、、、

 

それぞれ、一人一人抱えているものは違うので、容易に言えることではありませんが、

 

立ち止まることは、同じ場所で足踏みしていることではありません。

後退していることでもありません。

周りの世の中の流れから、置いてけぼりになる訳でもありません。

 

人生という大きな流れの中の一部として、意味のある、必要な時間だと思います。

タイトルにあげた「妻として」「母として」「看護師として」

これらは私の人生の役割の部分です。

いきがいであり、大切な大切な自己価値に結び付くものです。

けれどもその役割部分の基盤になるものは、安定した「自分」です。

 

マズロー欲求段階説を唱えたことはあまりに有名ですが、今回はそういう難しい内容は置いておいて(また別の機会に…)、私が感じた正直な気づきをもって言えば、

本当に自分自身を生きられているか、を自分に問うてみることは、人生において価値のあることだと思います。

 

必死になって頑張りすぎてたんやな、自分。

なんだかんだ、、しんどかったんや、自分。

やらなあかん、がんばらなあかん、て決めつけてただけなんかな、自分。

できることはしたらいい、でけへんことはせんでいい、当たり前やん。

 

ほんの少し、気が緩んで、自分で自分をいたわれるような感じです。

 

全く違う人間になるわけではないけれど、このちょっとの気づきが、がんじがらめになっていた今までの自分から、ちょっとだけパワーアップした自分に生まれ変わったような気がします。

 

ほんのひと時でも、一旦肩の荷物を降ろしてみてください。

見えてくるものがあるかもしれません。

 

現在休職中な仕事のこと

私の仕事は看護師です。

今は休職しています。

前回の記事に書いた通り、主人が病気になり、そばで付きっきりにならないといけなくなり、、なんとかしないと、どうにかしないと、でもどうしたらいいのか、どうしてあげることもできない、でも自分がしっかりしないと、と毎日毎日毎日毎日・・・・一緒に悩み苦しみの中に居続けた結果、、私も症状が出るようになってしまった、というのが事実です。


家族として寄り添うことの難しさを、ここ数か月の間で痛感しました。

抱え込んではだめです。本当にそれはお互いのために良くないです。

病気で苦しむ本人にとっても、そばで支える家族にとっても。

本当に受け入れるということの難しさ・・・。

はっきりとした答えはないかもしれないけど、今言えることは、私の支え方は本当の意味での支えではなかった、ということ、ただそれだけです。

この話は、また別の機会に。

 

さて、そんなこんなですが、休職していた仕事に、復帰することになりました。

正確には、復帰せざるを得なくなったからです、いろいろな意味で。

大きな理由は生活を保つことです。

生きていくためです。

そしてもう一つは、先ほど書いたような理由です。

つまり、主人と私の関係性のためです。ほどよい距離のためです。

 


私が看護師になったのは実は30歳を超えてからです。紆余曲折?というほどではないですが、26歳のとき、これからの人生、自分はこのままでいいのか、と突如思い立ち、看護学校に入り資格を取りました。

この頃、主人と出会います。少し話したその日に、「あ〜私は10年後も20年後もこの人の横におるんやろな〜」と自然に感じました。

この話はまた別の機会に(^ω^)


もともとは、臨床心理士を目指して猛勉強していたのですが、大学院まで行くには…と、一旦社会に出て働きながらお金を貯めて大学院に一年間通いました。

一年間?…

そうです、リタイアしました。

大学院の修士課程は2年です。その課程を終えてはじめて臨床心理士の受験資格が取得できます。今は公認心理士という資格が出来て、門は少し広げられていますね。

とにかく、私は臨床心理士という道を諦めました。挫折といえば挫折ですが、基本的に前向きな性格なもんで、気持ちよく諦めました。

これは私には無理な世界やわ、、

やめましょう、ありがとう。

という具合に…(・∀・)


その時就いていた仕事は病院での介護の仕事だったので、しばらく続けたわけで…

楽しかったんです。

患者さんと関わっていくなかで、何か自分の中で芽生えてきたものが積み重なっていたのでしょう。


あ、看護師なろう。


ふいに思い立ったわけです。


ふいに、といっても、自分の中の湧き上がる混沌としたものを頭の中でいっぱい整理した結果です。

これから先の自分に対する不安や、焦りや、今の自分のなんとなくの不充足感や、希望や期待、色々なものを整理しながら日々過ごしていたように思います。


そこから自分の意志みたいなものが固まってきたように思います。


その意志、のもとになった感覚は、 今でもはっきり覚えていますが、

「自分に正直に生きてみよう」

でした。


私はそれまでの人生、周りの期待に応えないといけない、準備されたレールの上をはみ出てはいけない、でもそんなことは嫌だから敢えて違うことをしてやろう、、そんなことばかり考えて生きてきたことに、この時気がつきました。

小さい頃から

「あんたは学校の先生か看護婦さんになりや」と言われ続けてきて、何も答えず、その二つにだけは絶対にならない、と決めていました。


そんな自分が本当に望み描いてきたものは、人の役に立つこと、助けになりたい、自分にも出来ることがあるなら、そんなシンプルな気持ちでした。

介護の仕事をしていて、患者さんの思い、願いに精一杯寄り添う大ベテランの看護師さんに出会いました。そこにいるだけで、何か言葉を発するだけで、周りがピリッと引き締まるような方でした。でも、その人の偉大さや本当の優しさを皆知っている、そんな方でした。その方が、患者さんの痛みや苦痛を理解して、ケアをしている姿を間近で感じたことが私の何かを突き動かしていったのかもしれません。

正直、嫌で嫌で仕方なかった看護師になりたい、と思った時は愕然としました。

けれどもそれは、ただ周りの思い通りになりたくない、という自分の単なるとらわれだったと気づいた時、すーっと肩の力が抜けたような、妙に穏やかに素直な気持ちで、自分の道を決められた、そんな瞬間でした。


私は看護師という仕事が好きです。

心から好きです。

大変だったこともあるし、これからも課題がなくなる事は決してないと思います。

けれども生涯、続けていきたいと思います。

そして、看護師の道を歩かせてくれ、支えてくれたのは、主人です。


だからこそ、私は戻ります。


再出発

今日、これから人生で初めてブログというものを始めます。

これまで40年生きてきて、初めてです( ・∇・)

自分では特別時代から遅れているという認識はないですが、

例えば、周りが皆スマホになった頃でもガラケーですけど何か?て感じだったり、LINEも周りに教えてもらってから、へ〜便利!て始めたり、インスタ?ツイッターFacebook?違いが分からん…何故連絡先の知らない昔の友人が知り合いかもにあがってくるのか…なんか、、怖くない?みたいな感じなもんで、やはり遅れているのでしょう(´∀`)

 

そんな私が、ブログを始めます。

それには理由があるわけで…

 

追い追い書ける範囲で書いていきますが、大きな理由は主人が病気になったからです。

心の病気です。

 

本人も妻である私にとっても、とてつもなく苦悩の時間でした…というか、今もなので、、です。

 

でも、、だからこそ、

 

今できることを感じて考えて、行動するために、少しずつ歩んでいくために、これまでのことや、今のこと、これからのことを書き綴っていきたいと思っています。

 

その中で、これまでの私の人生で感じ考えたこと、仕事のこと、趣味、好きなこと、

 

などなど…思うままに残していけたらなぁと思います。

 

不慣れなもので、読みにくいと思いますが、、、

再出発ブログ始めます。