40歳からの再出発〜肝っ玉母ちゃんのブログ〜

40歳からの再出発〜肝っ玉母ちゃんのブログ〜

40歳を過ぎて人生の転機が訪れた看護師の記録。家庭、仕事、人生を素直な生きた言葉で感じていきたいです。

家族として寄り添うこと

臨床心理学を学び、心の病いや心の現象について、一般の方よりは知識が少しある私は、

 

主人が徐々に苦しみの中に入っていっていった事も、苦しみの中から出てくるメッセージにも、気づけなかった。

 

苦しみの中から必死に脱け出そうとしている主人を助けられない。

 

自分を責めました。

 

でも、

そんなこと、関係ない

 

症状、病気ばかりに目を向けたところで、何の意味もないのかもしれません。

 

私は心の専門家ではない。

妻であり、家族です。

それ以上でも以下でもない。

 

 

 

 寄り添うって簡単に言うけど…

辛い思いを抱えて苦しんでいる人には、寄り添う事が最も大切で必要な事です。
 
よく目にするし、耳にするフレーズです。
 
寄り添うってどういう事なんでしょう。
 
看護の世界でもそうです。
健康を害した人の痛みや苦しみに寄り添う事が、看護師に求められる最も大切なことだと私は思っています。
どれだけ知識や経験があるベテラン看護師でも、患者さんの苦痛を和らげる看護が出来ていない看護師もいます。
一年目の新米看護師であっても、患者さんにとって気持ちの側面では寄り添う努力ができる看護師もいます。
 
寄り添う事…永遠のテーマなのかもしれません。
 
正直、寄り添う看護ってどういう事なのか…
私自身、常に悩んでいる事でした。
 
経験年数は問わず、素晴らしい看護が出来ている場面には素直に感動し、吸収しようといつも努めていました。
 
 
そして、
主人が病気になった。
 
家族として寄り添いたい。
自分にできる事はそれしかないから。
出来る事の全てをしたい。
必死でした。
 
不安と恐怖でいっぱいの主人に、その不安をなんとか和らげたい一心で、
自分だったらこう考えたら楽になる、こう考えてみたら?こう捉えてみたらどう?
 
思いつく限りの対処や視点の切り替えができるよう声をかけました。
時には黙ってただそばにいたり…
 
辛い気持ちを分かってあげたい
そしてともに乗り越えたい。
 
 
私がしたことは
単なる押し付けだったのかもしれません。
 
 
結果論ですが、
主人の思いを無視して、自分の土俵で主人の不安と対峙していただけのことであり、
寄り添う事とは程遠いものだったと
随分経ってから分かりました。
 
自分の思いが乗せられれば乗せられる程、主人にはそばにいる私が遠く感じたのかもしれません。
 
私はもう途方に暮れていました。
 
どうしたらいいのか
もう分からなくなっていきました。
 
 

暖かく無関心?

精神的な病を抱える家族への対応として調べていると、「暖かく無関心」である事、と記されていました。
 
暖かく無関心…
 
……
 
 
分かる人には分かるのでしょうか。
 
振り返ってみると、そうそう、ほんまにその通り!と思うのでしょうか。
 
その表現が最適!なのでしょうか。
 
苦しみもがく家族を前にしてどうしたらいいのかわからなくて…
 
そんな時に
これほど具体性のないアドバイスは、私には何の役にも立たなかった。
 
抽象的な表現すぎて私には良く分からなかった。
 
心の病といっても一人一人そこに巡る思いはそれぞれで、何が正解で何がフィットするかは分からないのだと思います。
 
暖かく無関心を意識して態度に示そうとすうと、
無関心が前に出て感じられた場合、見放されている、と感じる人もいるでしょうし、
努めて自然に周囲が過ごすことを、自分がいなければ家族は以前と同様に自然な日常を過ごせるのか、と自己否定に結びつける人もいるでしょう。
 
かといって、気にかけすぎたり、気をつかいすぎても、それは精神的な圧迫感を感じさせてしまいます。
 
そうなると
より一層、孤立感を強めてしまうこともあるかもしれません。
 
暖かく無関心…この抽象的な表現を具体的な対応として実践することは、身近な家族であればあるほど、とてつもなく難しいことだと思います。
 

話を「聴く」ということ

 とにかくひたすら「聴く」事をしてみようと思いました。

相手が何を伝えようとしているか、本当に「理解して」「聴く」ことは、

実は本当に本当に難しいことです。

 

言葉として出てきたものを理解するとき、人は必ず自分の心のフィルターを通して理解します。

自分の捉え方の「癖」があるものです。

 

本当に相手が何を言いたいのかを理解するには、この事を常にわかっておかなければならないと思います。

 

 

簡単ではないです。

 

 

「働く事がこわい」「家にいるのも何もしてない自分を許せなくて苦しい」

 

主人の口から出た言葉です。 

毎日この苦しさの中にいます。

 

働く事の何がこわいのか、そこには芋づるのように多くの不安が絡まっています。

その怖さがあって今家にいる事しか出来ない。

でも家にいるだけの自分を認められず責めてしまう。

 

何て答えてあげられますか?

 

だったら、こうしたらいい

こう考えてみたらいい、

 

それがでけへんから苦しいねん。。

 

ますます主人を追い詰めました。

 

 

どの方向を指し示されても

今はどちらにも行けず、

身動きがとれていない、

その現状自体が苦しいんだ、

 

その苦しすぎる自分をわかってほしい

 

本当に主人が伝えてわかって欲しかった思いは、ただそれだけだったのかもしれません。

 

それに気づいたのは本当に最近の事です。

 

抜け出すための解決策を教えてほしい、という気持ちばかりに気を取られて必死に解決策を考えて伝えても

今、ほんとうに言いたいことを聴いていることにはならないと思いました。

私にも焦りがあったのでしょう。

 

ほんとうに言いたいことを聴いてわかること

 

寄り添うことの一歩かもしれません。

 

自分の想いを伝えること

結局行き着いた先には

正解の形なんてどこを探してもない

 

私が主人をただただ唯一無二の大事な大切な必要な存在として思っていること

 

その思いそのものが

答えを見いだしてくれるのだと思います。

 

 

どれだけ大切に思っているか

どれだけ相手の力を信じているか

どれだけ相手の勇気や頑張りを感じているか

 

妻としての思いを伝えることだけは

私が一貫してしている事です。

 

 

ぶつかり合うこと

主人とはもともと喧嘩なんてほとんどしませんでした。
たまには勿論ありましたよ。
でも、いつも思い合っているのにそこに誤解が生じたり、言葉尻でちょっとしたズレが生じて、お互い冷静になれなかっただけ、とすぐ話し合えて、互いの思いや考えを伝え合い、ごめんやったなぁと仲直りできていました。
 
 
主人が病気になってから
心が苦しすぎてどうしようもなくて
何度も激しくぶつかり合いました。
 
主人は勿論のこと、私にも心の余裕がなくなっていたのだと思います。
 
 
そして私は
主人を傷つけてしまうのではないか…
余計な刺激になってしまうのではないか…
と、
 
主人に何も話せなくなっていきました。
 
言葉は浮かんでも、口に出せなくなっていました。
 
そんな私に
「なんて声かけていいかも分からんなったかぁ…」と
辛そうに言いました。
 
思いは溢れる程あっても
何と声をかけていいのかがわからなくなって
一番辛かった時でした。
 
これじゃあかん。
家族やのに。
こんなに大事やのに。
どう受け取ろうが、思ってることを言えないなんて悲しすぎる!!
 
そして
ぶつけました。
思いの丈を全てぶつけました。
 
お互い思いきり泣きました。
 
 
どんな時でも
ほんとうの思いは、ほんとうの言葉として必ず伝わるものです。
 
それが一瞬しか心に浸透しなくても
病を抱える人、病を抱える人を支えようとする人である前に
 
私たちは家族なんだという事を取り戻せた瞬間でした。
 
 
 

家族として寄り添い支えること

まだ主人は闘っています。
私も妻として支えることを模索しながら毎日を過ごしています。
 
結局のところは、主人自身が乗り越えていくものだと思います。
 
ですが、主人が乗り越えていけるように歩む一歩を支えることは出来ると思います。
 
その少しの一歩を安心して歩み積み重ねていくことをともに感じ喜ぶ事はできます。
 
その喜びが一つずつ
主人の喜びや勇気や希望のかけらにしていけるように支えることはできると思います。
 
誰が何と言おうが、
この世の中で
主人の純粋さや素直な心を知っているのは私だと自信を持って言い切れます。

 
だからこそ、
主人が回復できると心から信じています。
 
私の底力が主人の力になると信じています。


結局、
寄り添うとは、こういう事です!!
という答えは出ないままですが…


今、出来ることをするのみです。